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宝生山 勝因寺

空海ゆかりの寺 山出の虚空蔵さん

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小天狗清蔵

22_1.jpg 小天狗さんと慕われている小天狗清蔵大徳は、永禄6年(1563)、伊賀市山出の小山屋敷に誕生し、幼名を清蔵と言いました。幼少の頃から他の子供とは性格や品行を異にし、近くにあった大きな観音堂や山服の密宗勝因寺に遊び、幼少より仏教に関心を持ち、若くして役行者の事績を慕って、近江国飯導寺岩本院に入寺し修験道を修しました。彼は奇行が多く容姿も怪異そのものであったといい、ために世間では「天狗の申し子」と噂され、後に自ら小天狗と名乗っています。

 天正7年清蔵16歳の時、大峰山修行中に天正伊賀の乱が勃発、2年後には伊賀全土が壊滅、神社仏閣はほとんど焼失しました。この間村人は菩提寺の仏像と共に山や谷に隠れ、御本尊を守ったと伝わります。翌年本能寺の変が勃発、いわゆる「神君伊賀越え」で伊賀者甲賀者が活躍したのもこの時です。

 田畑は荒れ、水路も乱れた伊賀の農水路復興に小天狗が戻り、知恵を出し尽力したとも伝えられており、この頃大峰修行と伴に廃墟と化した郷里伊賀の復興を決意した思われます。

 記録に残る最初の社寺再興造栄は、永禄2年(1593)6月8日で伊賀一宮敢国神社に始まります。この後、大峰山行者堂建立、山城和束天満宮建立、紀伊小天狗寺建立、熊野権現再興、そして慶長3年(1598)11月には西柘植村愛田大蔵八幡神社(現日置神社に合祀)を修造しています。

 そして慶長5年(1600)、小天狗は伊賀上野に教雲院(後の大福寺)を建立、伊賀国の安泰と繁栄を祈願するため荒廃した社寺を復興する大勧進をはじめました。

 この頃藤堂泉守高虎が伊勢、伊賀両国の領主となり伊賀上野の城郭普請に着手し、城下町の建設をはじめます。そして小天狗のその奇篤が領主の聴聞に達し、高虎公は小天狗に深く帰依し、朝日嶽の神籬に城郭の抻を守護する祈願所の造営を命じました。その造営奉行には重臣石田清兵衛が遣わされ作事は地元の大工小田村弥蔵、久米村甚二郎が棟梁となり元和2年(1616)正月23日には荘厳な社殿の上棟を成しました。これによって教雲院を別当に定め、寺号を大福寺と改め嵯峨大覚寺の末寺におき、大覚寺の門跡宮の令旨をうけて後陽成院の御宸筆「愛宕山」の神号を賜りましたので「伊賀国上野新愛宕権現宮」と称せられました。これが、現在の愛宕神社です。

 この間に、猪田神社を再興、長田村射手神社諏訪大明神、そして上野九所大明神天満宮(元平楽寺鎮守)を再興しています。

 1612年には別記小天狗の鐘を鋳造、大福寺に吊りました。またこの年故郷山出の勝因寺を再興、谷や池に隠した仏像群を修復安置しています。1617年には勝因寺も大覚寺の末寺としています。

 元和9年(1623)、勝因寺住職となり山出に戻ります。この時代の業績として、府中村南宮山富士祠勧請、猪田村三社住吉社勧請、熊野本宮祠勧請、熊野新宮王祠勧請等が挙げられます。

 寛永9年(1632)、8月29日、勝因寺にて80才で遷化、境内に残る墓碑には「小天狗証果清蔵信徳宥遍」と銘されています。